北御堂で大阪の歴史を学ぶ

 2021年3月下旬と7月下旬に大阪市中央区の西本願寺津村別院、北御堂(きたみどう)を訪れました。北御堂ミュージアム(Fig. 1)のシアター(Fig. 2)で鑑賞できる映像「大阪の地と北御堂」で、大阪と浄土真宗の歴史を学びました。

北御堂ミュージアム
Fig. 1 北御堂ミュージアム

▼ 大阪城の場所に坊舎が存在

 奈良時代に造営された難波宮(なにわのみや)以来、大阪が日本の中心として脚光を浴びたのは、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ、大阪城を築いた安土桃山時代。しかしその約50年前、同じ場所に浄土真宗の坊舎が存在していた事は、あまり知られていません。

 第8世住職、蓮如(れんにょ)が上町台地の北に建立した大坂御坊は、大阪本願寺(別名石山本願寺)(Fig. 3)となり寺内町(じないまち)が形成され賑わいを見せます。しかし、織田信長との10年にも及ぶ石山合戦に敗れ、第11世顕如(けんにょ)は和歌山に逃れます。一方その長男教如(きょうにょ)は大阪に残り抗戦しますが、信長は本能寺の変であえなく非業の死を遂げます。

北御堂シアター案内
Fig. 2 北御堂シアター案内
▼ 大阪城の築城に貢献

 その跡を継いだ豊臣秀吉は顕如の力を借り、かつて石山本願寺とその寺内町があった場所に大阪城とその城下町を築きます。さらに秀吉は和泉貝塚を経て、天満に移った本願寺を京都六条堀川に移すよう命じます。

 時は流れ、関ヶ原の戦いで豊臣氏を破った徳川家康により、教如もまた京都六条烏丸の地を寄進され、「本願寺の東」という意味から東本願寺を建立します。両者は現在も、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派の本山としてともに多くの所属寺院をかかえています。 

大阪本願寺・寺内町模型
Fig. 3 大阪本願寺・寺内町模型

▼ 大阪のメインストリートに

 中心は江戸に移ったものの、天下の台所として繁栄を続ける大阪。本願寺派と大谷派は中心の本町に、それぞれ北御堂、南御堂と名付けた別院を建立します。

 両者を結ぶ通りは御堂筋と呼ばれ、大正時代の拡幅工事、昭和初期の地下鉄御堂筋線建設などを経て、現在も大阪のメインストリートして確固たる地位を維持し続けています。

16世紀の大阪1
16世紀の大阪2
Fig. 4 16世紀の大阪1
Fig. 5 16世紀の大阪2

北御堂ミュージアム 大阪市中央区1津村別院山門下1階

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