川崎の今と昔のはなし

 2015年8月11日にミューザ川崎第1会議室で、以下の講演を受講しました。前半の映画では深刻な公害被害者の病状に心を痛め、後半の説明では公害は現在も継続しているという事を知りました。後日、写真集・川崎公害と環境再生を読み、知識を深めました。

▼ 演題 川崎の今と昔のはなし
▼ 講師 川崎フューチャー・ネットワーク 三枝信子さん
▼ 場所 ミューザ川崎第1会議室 川崎市幸区大宮町1310
▼ 日時 2015年8月11日(火)19:00~20:30

1960年代の川崎臨海部
Fig. 1 1960年代の京浜工業地帯
▼ 1960年代公害が深刻化

 1984年に制作された映画・生きる権利を視聴した後、講師による配布資料の説明を受けた。神奈川県川崎市は、1924(大正13)年に市制を施行したが、それ以前の明治時代後期から企業の工場を積極的に誘致し、進出が始まっていた。

 戦前も公害による被害はあったが影響は限定的であり、海辺には海水浴場が設けられ、大師海苔や長十郎梨の産地であった。1960年代(Fig. 1)から1970年代(Fig. 2)にかけて高度経済成長と共に、公害による被害が深刻化、広大化した。

 川崎の公害による症状は、気管支炎と喘息が中心であり、その原因は、工場や自動車から排出される窒素酸化物(NOX)、硫黄酸化物(SOX)、浮遊粒子状物質(SPM)、微小粒子状物質(PM2.5)といった化学物質の飛散であった。

1970年代の川崎臨海部
Fig. 2 1970年代の京浜工業地帯

▼ 現在も基準を上回る

 川崎市民による約12,000人の署名に背中を押されるように、国の対策と並行して川崎市に公害防止対策特別委員会が設置され、公害防止条例が公布された。

 1980年代に1次から4次まで合計440人の原告が、12社の企業と国、首都高速道路公団を被告として訴訟を起こし、1999年に和解した。その間、川崎区、幸区の公害健康補償制度指定地域解除や窒素酸化物(NOX)の国環境基準緩和などの企業、自治体、国によるゆり戻しがあった。

 2015年現在、硫黄酸化物(SOX)、微小粒子状物質(PM2.5)は環境基準を下回っているが、窒素酸化物(NOX)、浮遊粒子状物質(SPM)、光化学オキシダント(OX)は、川崎市の環境基準を上回っている状況である。

※ 写真(Fig. 1、Fig. 2)は、淡彩スケッチ町ある記さんからお借りいたしました。
   ありがとうございます。


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