戦争を語り継ぐ@川崎

 2015(平成)年3月10日に、川崎市幸区で戦争体験者による講演を聴きました。空襲と疎開が、人々の生活やその後の人生にどのように影響を与えたかを知る貴重な機会になりました。

都町交差点
Fig. 1 都町交差点

▼ ミカン箱で作った棺

 1945(昭和20)年4月15日の晩、川崎市南部地域は、米軍の爆撃により火の海となりました。焼夷弾や破砕性爆弾が使用されました。

 南幸町、中幸町、都町の住民は、京浜第二国道の都町ロータリー(通称、一本松)を目指して避難しました。現在、幸警察署や南河原公園がある都町交差点(Fig. 1)にあたります。

 その都町ロータリーもまた爆撃の対象となり、約200人の命が奪われました。それらの遺体は、翌日都町の延命寺(Fig. 2)に集められました

 その後、近くにある銭湯の跡地で荼毘に付されました。空襲で母を亡くした方は、木製のミカン箱で作った棺に入れて遺骨を持ち帰ったそうです。

 延命寺には昭和22(1947)年に慰霊塔と石碑が造られ、空襲の悲惨さを後世に伝えています。

延命寺@川崎市幸区
Fig. 2 延命寺@川崎市幸区
▼ 栄養失調と脱走

 1944(昭和19)年から1945(昭和20)年にかけて、小学3年から小学6年だった川崎市の子供たちは、戦火を逃れるため神奈川県伊勢原市に疎開しました。

 子供たちが親元を離れ、集団生活を送る事は、心身ともに大きな負担になりました。小学3年生で昭和20(1945)年に疎開した方は、栄養失調になり約3ヶ月入院したそうです。また、上級生によるいじめがあり、脱走する生徒が複数いました。

 戦争は、地域社会や人々に大きな爪跡を残しました。約70年前の事を今も鮮明に記憶されている方々の話に、胸がしめつけられる思いにかられました。

 当時と比べて格段に生活しやすくなった社会の便利さを享受するだけでなく、次の世代にバトンを引き継ぐ大切さを認識しました。

※ 写真(Fig. 2)は、インターネット川崎ガイドさんからお借りいたしました。
   ありがとうございます。


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